0⇔∞(仮・はてなブログ継続)

こちらのブログは、はてなダイアリーの同タイトル日記から継続しています=管理人は一緒。Twitterと以前のブログ含め管理人筆者は生物学的にも精神的にも生まれてから約半世紀変わらず2000%男ですよ。

雲の流れが速い

  • 来週分=25,26日前後観戦予定試合数:9かその前後。※・・・放送時間の不都合や、このブログ管理人の都合もしくはごく稀にある、数十年間に渡り見てきたこと、そしてここ数年間の試合内容を考えても一切進歩していない、もしくは進歩する兆しが一切感じられないチームや監督、フルタイム見るに値しないプレーを毎週繰り返してるチームの試合はフツーにカットもしくは早送りしてます。このブログ管理人は他にもすることがあるのでね。しっかりとメンバー揃え・・・手元に選手名鑑あり、調べられる範囲で移籍、下部組織からの選手やB−リストなどもチェックしているので誰が欠場しているかは理解してます。怪我や出場停止なども調べられる範囲で(気になる人がいるのであれば、ブログ内を選手名鑑で検索してください。このブログ管理人の名鑑使用法が出てきます)。誰に要求されるでもなく自らの志高く、意識高くプレーを続けてるチーム野選手、監督などを見られるのは人生にとって素晴らしいことです。そんなチームや選手を見ていたいですね。
  • 大勢で何かをしなければならないという決め事がある場合は完全に別な事。・・・簡単に。粘土がある。誰かが自分の考えた物を作る。その横で誰かが同じように粘土を目の前にして「同じ物をつくりたい」もしくは「同じ物が欲しい」と言う。・・・何処でもいい、紙と鉛筆を持って近所に出掛け、絵を描く。好きな風景を決め、描き始める。出掛けなくてもいい。頭の中で作り出した事を描いてもいい。その横で誰かが紙と鉛筆を前にして「同じ絵を描きたい」「同じ事を考えて絵にしたい」と言う。・・・厚紙をハサミで切り、様々な形を切り出しては組み合わせ、何かを創る。その横で誰かが厚紙とハサミを前にして「同じ物を切りたい」「同じ物を創りたい」と言う。・・・同じでいいかもしれない。ただ、ある程度限界のある事とはいえ、自由に何かを創り出せる環境がある時に、人と同じであることを選んでしまう人は、どうなのかと思う。何かを創り出すことに適していないのではないか。だからといってこのブログ管理人に創造の才能が人よりあるなどとは言っていない。むしろ普通。昔の事だが、授業で外に絵を描きに行った。きっと、誰でもあるだろう。決められた場所で何を描いてもよかった。こういう場合、このブログ管理人はだいたい1人やら少ない人数になる。間違ってもグループを作ってどれを描こうかなどと相談しなかった。結果として同じになる人はいても、最初から誰かのマネはしなかった。・・・そりゃいましたよ、そんな時にも集団で動くのは。普段どう思うかは完全に別として、何故なにかをたとえ限られた範囲とはいえ創り出すことが出来るのに、人と同じ事が楽しいのか理解出来なかった。同じ風景とはいえバラバラに描いてるのだから別にいいのだが、そこまで一緒にならなくとも・・・これは今でも変わらない。ある程度の制限こそあれ、誰かのために何かを創る必要も無く、自分の世界を探して創り出せるのに人と同じことを選んでしまう人は、この状況下で創り出すことに適していない。最近こんな人を本当に多く目にする。見る度に、特になにも言う気はないが、それは違うと思ってる。そして、これを否定するために自ら考えることを悪と決め、放棄するならば、その人間に首から上は無用だ。
  • 別の日付にも書いたが、ちょっと書き加えて。今まで何かを決める時の基準が周囲に知られた場合や、その集団が好きで評価して使っていた物などが特定の何かも同様に使っていた事が明らかになった時などに、その基準や評価を変更する集団がある。この集団はその事柄を理解しているのではなく、基準だけで感情だけで決定している。その為基準が変わるとこの集団が下す評価も一変する。以前の基準では素晴らしかった事が、たった一秒後に最悪なものとなる。何も変わらず素晴らしいものが、基準の変化だけで、本来の能力は一切無視され感情だけで最悪とされる。それが人間や生き物だった場合もう滅茶苦茶だ。極端ではなく、そこにただ立っているだけなのに1秒前は絶賛され、1秒後にはゴミ扱いされてるのだ。この集団が基準を変更する唯一の理由は、この集団の思うように決定された事が動かなくなった場合だけ。要するに、何かを評価するには能力不足。ワガママ。テメー等の都合だけで全ての評価を変える。その物事など一切理解しようとせずにね。この集団は悪役でも原因でもなく、ゴミだ。
  • ただ勝っている人と、勝つのは当り前で、その上素晴らしい内容を見せてくれている人。後者が評価されなくなった社会は、全てが異常で、死んでる。
  • つい数ヶ月、1年前程は散々騒いでいた人が見せる余裕の態度は100%嘘。自信や経験、その人本来が持つ人間性ではなく、何かに影響されたニセの余裕。
  • 見事なタイミングでこんなこと「良心に反しても指示に従う」4割で過去最高------これが現実。だが、異常と思わない感覚が普通になったら、もう、誰も何も言えない。言ってはならない。
  • 記事はここ北海道新聞より------流れるので全文掲載。

「大仏」(4月26日)
「米国が爆弾ではなく、本を落としていたら−」。来日したイランの女性監督ハナ・マフマルバフさんは記者会見でそう語った。弱冠二十歳。父は「カンダハール」などで知られるイラン映画の巨匠モフセン・マフマルバフ氏▼彼女が十九歳のとき完成させた映画「子供の情景」が公開されている(札幌では六月予定)。原題は「仏像は恥辱のあまり崩れ落ちた」。父親の著作の題名からとった▼アフガニスタン中部バーミヤン。そこの巨大な石仏像が、イスラム原理主義勢力タリバンによって爆破されたのは二〇〇一年三月。国際社会の非難に、父マフマルバフ氏は訴えた▼石仏は破壊されたのではない。戦火と飢えに苦しむ人々を救えない無力を恥じて、砕け散ったのだと。アフガンの現実に無関心を決め込む世界への痛烈な言葉だった▼ハナさんはがれきが積もる破壊の跡を舞台に選んだ。学校に行きたいとニワトリの卵を売ってノートを買った少女が、タリバンをまねた少年たちに阻まれる。ノートは破られ紙飛行機に。だが少女はいじめっ子に敢然と言い放つ▼「戦争ごっこは嫌いよ」。子供は、大人をまねて育つ。大人から暴力しか学ばなかった子供が大きくなれば世界はどうなるのか。タリバンが復活し米軍は増派で押さえ込もうとする。暴力の応酬が続く。爆弾でなく、本とノートと鉛筆があれば未来はきっと変わるだろうに。

 今、世界中を動かしているのは本とノートと鉛筆で育った人達。爆弾を作り、落としてるのも本とノート鉛筆で育った人達。大人から暴力しか学ばなかった人達より簡単に大勢殺し、今この瞬間も間接的に殺し続けてるのは、本とノートと鉛筆で育った人達。このブログ管理人も、本とノートと鉛筆で育った人。だから、人殺しを促すような全ての言動を一生拒否してる。
 ※念のため・・・本とノートと鉛筆で育つ=学校に通った人であり、教育という意味。間違っても本屋と文房具店で育った人ではない。プロフィール欄にあるように、このブログには人を笑わせることなど一文字もありません。これから先もありません。そういうのが好きな人(注意:このブログ管理人が笑いを嫌いなワケではない。このブログにはその要素は必要ないので)は来ないで、関わらないで下さい。
 なぜこんな事を書いたかというと、そのように解釈した人がいたので、一応。